■阪神・淡路大震災から10年が経って

明け方午前5時46分,過去経験したことがない大きな揺れが長く続いた。それから,明日でちょうど10年が経ったことになる。テレビや新聞でいろいろな特集や記事,報道がなされているので,多くの方が過去の経験を想い出されているのではないだろうか?

特に,昨年末,スマトラ島沖の地震,津波で15万人以上とも云われる死者が出たと報道されている。しかも,東南アジアの被害地だけでなく世界中の国々の人々の多くが被害にあったという歴史上かってない出来事が起こったばかりで,今なお毎日,新しい報道が流れ,その被害の大きさを知らされ,ただ驚愕するばかりである。

10年前の出来事に遡るが,大阪の枚方市に住んでいたため(今も同じだが),確か震度3か4程度で,家の壁に多少ひび割れが生じた程度で,今なおその傷跡が残っている。幸いにも被害はその程度で殆どなかった。

私の経験した範囲で,以下そのときの記憶を辿ってみることにする。

10年前の1995年1月17日(火曜日)午前5時46分。大きな揺れに何一つできず,じっと布団の中で静まることを待っていただけであった。当日は,朝早くから東京へ出張する予定であった。確か休日明けと記憶していたので,カレンダーを見てみると前日の1月16日が月曜日だったが,成人の日(当時は1月15日)の振り替え休日だった。東京への出張とあっていつもより早く起きねばならなかったが,大きな揺れで起こされてしまった。すぐさま頭を過ぎったのは,新幹線は遅れないだろうな?家の壁が落ちたりしていないだろうな?

すぐさま飛び起きると,テレビのスイッチをつけた。6時前である。何とテレビの最初の報道は今でも覚えているが,「東海地方で大きな地震があったようです」だった。「大阪の枚方でこれだけの揺れを感じたのだから,滋賀の実家の方は大丈夫だろうか?」。テレビを付け放しにしておくと,だんだん様子が判ってきて,次の報道では,「近畿地方で大きな地震がありました」に変わっていった。出かける前に,実家の様子だけは聞いておかないとと,母独り居る実家に電話した。(そのときは,未だ電話が通じた。通じなくなったのは,昼過ぎくらいからではなかったか?)母は布団の中から,電話口に出て,「未だ真っ暗で,外の様子は判らないが,大丈夫」とのことだった。 こちらも,ひどい揺れだったが家族全員,無事であることを告げた。実家は古い家なので,心配だったので,「明るくなってから,家の周りが大丈夫か,確認しておくように」と,母に頼んだ。

朝食を済ませたが,新幹線がどうなっているか全く判らない。東京への出張なので,枚方から京都まで出るのに京阪電車と近鉄電車に乗らなければならない。記憶がかすかになっているので不確かだが,一時ストップしていた京阪電車は動き出したような報道だったので,出かけることにした。日の出前の薄暗い中,自宅の周辺を見渡したが,特に被害はなさそうだったので安心した。(自宅の壁のひび割れは後になって判った) 枚方市駅までバスで出て,京阪電車に午前7時頃乗った。時刻表通りの運行ではなかった。京阪電車の中で,2度目の余震が来た。電車は10分程度立ち往生したが,再び動き出し,近鉄に乗り換え,京都駅の新幹線乗り場までたどり着いた。(8時頃だったと思う)

改札口では,駅員が対応していて,始発から動いていないことを説明。「しばらくお待ちください。状況が判りましたら,構内放送しますから」とのことで,その時間,京都駅では,未だ誰一人,大地震で大きな被害が出ているとは判らなかった。会社の先輩と二人で出張予定で,京都駅で落ち合い,二人で暫く待ってみたが,時間が掛かりそうな雰囲気だったので,喫茶店で時間をつぶすことにした。(全くのんびりしたものである。まさか,大きな被害が出ているとは微塵にも感じられなかった)

喫茶店でその先輩いわく,先輩の家は枚方の近くであったが高層15階の一番上の階に自宅があったため,戸棚の食器類がすべて投げ出されて,後かたづけが大変だったがそこそこで家を出てきたとのことだった。それを聞いて,結構大きな地震だったのだなあ,と感じた。1時間程度経って,9時頃だと思うが,未だ改札口は閉まったままである。駅員は相変わらず「まだ状況がよく判りません。いつ電車が来るか判りません」と,繰り返すばかりだった。人混みがだんだんしてきて,「どうも死者が出たようだ」との噂が流れ出した。テレビの報道がどうだったか,定かでないが,9時時点では,まだ全容が掴めていないのではなかったか。

たんだん人が増えてくると共に,「神戸の方がひどいことになっているらしい」との声も聞かれた。テレビは一斉に報道を地震のニュースの変えていたようだが,ずっと見ていた訳ではないので,状況がよく判らないまま,一時間ほど京都駅で電車を来るのを待っていた。それでも,電車が一向に来る様子がない。先輩と相談した結果,とにかく,今日の出張は取り止め,会社に戻ることにした。

会社に戻ったのは,昼休み頃だったと思う。テレビの報道では,被害が大きくなってきていることが繰り返し繰り返しされていた。会社の方も,設備の被害があちこちで出ていた。もちろん,出てきていない人も何人かあった。会社は,出てきていない人の安否の確認を必死になってしていたが,その日に全員に連絡が取れた訳ではなかった。

たいへんな一日であったが帰宅すると,電話が通じない状態になっていた。幸いにも朝一番で,実家には連絡が取れたので,私共家族は,お互いが心配することはなかったが,多くの人が,電話が不通になり安否が確認できない状態が何日か続いたようだった。

会社には,神戸方面から通っている人も多くいた。また,神戸方面に会社があるという人も居るが,その人たちの話では,想像を絶する出来事が起こっていたようである。と云うのも,親族が神戸方面には誰も居なかったので,お見舞いに行ったり,手伝いに行ったことはなかった。近くでありながら,全国のみなさんと同じようにテレビの報道で見聞きしたことしかない。ひどい状態を実際に見たわけではない。電車が開通して随分経ってから,青いビニールシートで覆われた家並みを電車の中から見ただけである。

以上はただ,そのとき自分は何をしていたか,記憶を辿りながら書き留めただけである。もっとつらい想いをされた方が同窓の中にも居るだろうし,また,昨年の中越地震でも被害に遭われた方もおられることだろう。或いは,昨年末のスマトラ島沖の災害に遭われた方もおられるかも知れない。幸いにも自分達家族はそうしたことに出会わなかっただけである。自然災害はどのようなことで何が起こるか判らない。備えよ常に,との言葉はあるが,なかなかできていないのが実態である。

人の記憶は風化してしまうのが常である。悲しい想い出もいつしか懐かしい想い出に変わってゆくこともある。そのときの実体験を,写真やビデオで記録として残すことによって風化させない動きがある。一方,人の心の中には,いやな想い出は忘れ去りたい気持もある。微妙なものである。ただ,このような災害が二度と起こらぬように,また起こっても最小限の被害で止めたいと思う気持ちはみんな同じである。

震災から10年経ち,改めて想い出したことを綴ってみた。

 

[2005.01.16 Reported by 「金亀一三会」システム担当  Hitoshi Nishimura