■卒業40周年にあたり
今年は卒業して40周年にあたる。
春は桜が満開の彦根城の内堀に沿った母校彦根東を卒業して,早やそれだけの歳月が流れたことになる。最早子供の成長にあれこれ悩んだ齢も過ぎ,孫の顔を見ながら良き爺さん,婆さんになっている人も多い。会社勤めの人は,定年まで後2年足らずを残すのみと云った方も多いことだろう。記憶の彼方になってしまったが,高校生活の想い出はこの歳になっても,いまだによき想い出として,脳裏の片隅に残っている。先輩,後輩,上司,部下と云った関係でなく,いつまで経っても同輩であり,「くん」呼ばわりで話せる間柄である。
「団塊の世代」のはしり
我々昭和21年,22年生まれは,いわゆる戦後のベビーブーム「団塊の世代」(昭和22年から昭和24年生まれ)のはしりである。少子高齢化が問題になっている今日の日本,そんな今日が来ようとは信じられなかった学生時代である。
少し懐かしく昔を振り返ってみると,物心がつき始めた頃にラジオから流れる「三つの歌」や「アチャコ青春手帳」に聞き入り,やがてテレビが街頭に出始め,プロレス中継に興奮し,人工衛星が地球を回ったことに感動した記憶がある。思えば何気なく使っているメートル法も,子供の頃は尺貫法からの切り替えで,肉屋へお使いに行き,百匁と頼んだのがいつしか400gへとなっていったことをかすかに覚えている世代である。(小学生時代)
「地球は青かった」とガガーリン少佐が有人飛行で最初に言った言葉は今でも記憶に残っている。(1961.4 中学3年生)また,修学旅行で当時流行した「高校三年生」を歌った。(1963.9 高校2年生)今でこそ,世界のニュースが居ながらにして見られるが,日米衛星放送が始まったのもこの年,ケネディ暗殺が起こった年である。(1963.11)さらに,ビジネスに欠かせぬアクセス手段である,当時の夢の超特急,新幹線が開通した。(1994.10.1 中学校で学んだ校舎が立ち退きで,卒業後に鉄筋の校舎になった),東京オリンピックが開かれた。(1964.10 高校3年生)これらは,我々の小・中学,高校時代の懐かしい想い出でのごく一部である。
大学に入った年,初めてプロ野球のドラフトが始まった。(1965)安保闘争にはじまる大学紛争はだんだんエスカレートしていき,大学卒業の年には,あの東大の安田講堂が,全学連に占拠され,その年の卒業は延期された。そういう私も,大学が占拠され,学校の出入りは,塀を乗り越えねば入れない経験をした。勿論,卒業式は開催されず,担当の教授から手渡された。
アポロ11号の月面着陸の瞬間は,社会人になった会社の寮で仲間と大広間で興奮しながら見た記憶がある。(1969.7.20)そして大阪で万国博覧会が開かれた。1970.3〜9月,までの6カ月間,入場者は6421万人だったとか。そう言う私も,大阪に住んでいたので,会社の寮から休日の度に10数回通った。特に,各パビリオンの若い外国のお姉さんを目当てに行ったものだった。あの一日の入場者が100万人を超えたと云われた当日も,カメラ片手に出かけていた。
高度成長期を実体験した世代
想い出は尽きないが,我々が社会人になった時代,1970年代に入った頃から,日本はだんだん高度成長期の真っ盛り,経済大国の仲間入りを始める。初任給が3万円程度だったものが,数年後の絶頂期には給与が30%も上がると云う経験もした世代である。「団塊の世代」(昭和22年〜24年生まれ)と云われる世代の掛かりの世代(昭和21年〜昭和22年生まれ)である我々,今の若い世代と違って,当に会社人間,仕事で帰りが午前様になることなど珍しくはなかった。こうした我々の先輩諸氏から我々世代までが,日本の高度成長時代を作って行った。
入社して10年経つか経たない頃,米国との仕事に携わり,初めて海外渡航することになったときは,今では笑い話になるかも知れないが,大阪の伊丹空港まで,家族は勿論,職場の同僚の殆どが見送りに来てくれた時代でもあった。初めての海外,しかも単独で,英語もろくに話せない者が出ていった経験は,海外で駐在員が出迎えはしてくれたが,無茶なようであるが,こうして我々の世代は育てられたのである。今でも記憶に残っているが,数時間かかる西海岸から東海岸まで,またニューメキシコなど住居が全く見えない空間の広いことをみるにつけ,「よくもまあ,こんな巨大な国と戦争したものだ」と,あきれかえったことがあった。
−−−−−−−(中略)
そんな団塊の世代も,会社では終焉を迎えようとしている。予想だにしなかった一流の会社が倒産の憂き目にあったり,ここ数年は殆どの会社がリストラと,我々世代に対する風当たりも強い。同期に入った同僚も,かなりの仲間が風当たりに耐えきれず,或いは,いち早く第二の人生をと,去って行った。入社当時からは想像もできなかったことである。現実は厳しいものがある。我々の世代の多くの方が同じ悲哀を,家族共々味わってきている。
卒40周年記念同窓会にむけて
我々同窓生は,卒業以来歩んできた道は様々である。栄華を極めた人も居れば,不幸のどん底を味わった人も居るかもしれない。しかし,同窓会はそうした苦楽を忘れさせてくれる憩いの瞬間である。まして,還暦を間近に迎える年代ともなれば,出世街道の競争とも関係がなくなりつつある。肩書きで仕事ができた時代は終わったのである。
しかも,同窓会とあらば肩書きとは無縁である。同じ教室で席を共にした仲間である。或いは,淡い想いを抱いた懐かしい人である。そんな同窓生が,40年経った今も,500人居た仲間が200人以上も集まる同窓会が,日本中探してもどれだけあるだろうか?
もちろん,遠距離で参加できない人,お盆の行事と重なって行きたくとも参加できない人など様々であろう。もし,このホームページを見られていて,迷っておられる方が居られれば,是非参加していただきたい。当に,何事にも代え難い,お金や時間では言い尽くせない貴重なものを与えて貰える場である。参加したことを,後悔することは先ずない,それどころか,参加することで,新たな仲間が増えるであろう。また,これまでの同窓会に既に参加されている方は,是非,誘い合って参加していただきたいものである。
あわよくば,全員参加して欲しいと願っている。
[2005.01.30 Reported by 「金亀一三会」システム担当 Hitoshi Nishimura]