■「国家の品格」について

ベストセラーになっているので,多くの方が読まれたかもしれないが,何となく我々の世代にはピッタリくる部分も多いので,紹介してみる。

表紙裏には,こんな言葉が添えられている。

日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化と云う名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は,この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では,社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは,論理よりも情緒,英語よりも国語,民主主義よりも武士道精神であり,「国家の品格」を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的な提言。

作者は,作家 新田次郎と藤原ていの次男で,数学者である。テレビ嫌いで,先日フジテレビ(関西テレビ)の「報道21」で見かけたが,一見無骨そうな,筋金入りの学者風に見えた。数学者である著者が,「論理」よりも「情緒」,「国語」だと云うのだから面白いのである。新潮新書としては「バカの壁」(400万部超)よりも早く,発売4カ月でミリオンセラーになったそうである。

Amazonの書評では,200を超えるものが寄せられており,賛否両論である。昔を懐かしがるだけの武士道精神を持ち上げすぎとの意見に対し,日本人を憂う,まさに日本人自身が品格を取り戻す本質をついているとの意見,などがある。

著者の主張は次のようなものである。

「論理」だけでは世界が破綻

今日先進国が似たように荒廃した真因は,西欧的な論理,近代的合理精神の破綻である。論理とか合理と云うものが重要なのは云うまでもないが,人間はそれだけではやっていけない,と云うことが明らかになりつつある。実力主義が叫ばれるが,必ずしも良いばかりではない。これが本当に徹底されるとケダモノの社会になってしまう。年功序列や終身雇用のような実力主義でないシステムがベースにある方が社会全体が安定する。日本は実際,そのようにして世界第二の経済大国になった。

論理だけではダメな理由が4つある。

  1. 論理の限界 : 論理的に得られた結論は磐石ではない
  2. 最も重要なことは論理で説明できない : 本当にいけないこと(例えば,人を殺してはいけない)は論理で説明がつかない。
  3. 論理には出発点がある : 出発点は仮説である。これを選ぶのは論理でなく,選ぶ人の情緒である
  4. 論理は長くなり得ない : 長い論理と云うのは危険である(風吹けば桶屋が儲かる,といった論理)

自由,平等,民主主義を疑う

戦後はことあるごとに「自由」が強調されてきた。日本の中世では自由と云う概念はしばしば「身勝手」と同じ意味に使われていた。この「自由」と云う化け物のおかげで,日本古来の道徳や,日本人が長年の間培ってきた伝統的な形と云うものが傷つけられた。

「平等」と云うのも,差別に対して「平等」と云う対抗軸で無理やり立て,力でねじ伏せようとするのが,闘争好きの欧米人の流儀である。日本は,差別に対して対抗軸でなく惻隠をもって応じたのである。敗者,虐げられた者への思いやりの心である。

民主主義ももちろんきちんとした論理は通っているが,「国民が成熟した判断ができる」と云う大前提が永遠に満たされないこと,その本質たる自由と平等はその存在と正当性のために神を必要とすること,と云う致命的ともいえる欠陥がある。自由,平等,民主主義は抑制を加えない限り暴走するものである。

自由と平等は両立しない。それはアメリカ社会を見ればわかる。プライベートなゴルフ場は女性も認めず,有色人種も入れないところがある。組織,趣向,思想からは自由だが,平等ではない。

「情緒」と「形」の国,日本

日本人の持つ情緒や形と云うのは,自然に対する繊細な感受性である。この感受性を源泉とする美的情緒が,日本人の核となって世界に例を見ない芸術を形づくっている。「悠久の自然と儚い人生」と云う対比の中に美を感じる,と云う類い希な能力も日本人にはある。「もののあわれ」と云う情緒である。また,日本人は自然に対する畏怖心とか,跪(ひざまず)く心を元来持っている。自然に聖なるものを感じ,自然と調和し,自然と共に生きようとした。そういう非常にすばらしい自然観があったのである。だからこそ神道が生まれた。この情緒が,或る意味で日本人の民族としての謙虚さを生んできた。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」と云う芭蕉の句がある。日本人は森閑としたどこかの境内の古池に,蛙が一匹チョンと飛び込む光景を想像する。日本人以外の多くの国では,蛙が集団でドバッと飛び込む光景を想像する。これでは,情緒も何もあったものではない。

「愛国心」と云う言葉は,二種類の意味がある。一つは「ナショナリズム」で,国益主義である。もう一つは,「パトリオティズム」で,自国の文化,伝統,情緒,自然をこよなく愛することである。これは美しい情緒で,世界中の国民が絶対に持っているべきものである。この二つを峻別しなかったために,戦争の元凶として切り捨てられたのである。わが国が現在直面する苦境の多くは,この後者の「祖国愛」とも云うべき「パトリオティズム」の欠如に起因するといっても過言ではない。

「武士道精神」の復活を

武士道は鎌倉時代以降,多くの日本人の行動基準,道徳基準として機能してきた。この中には,慈愛,誠実,忍耐,正義,勇気,惻隠などが盛り込まれている。「名誉」と「恥」の意識もある。

いじめの問題も,「卑怯を憎む心」をきちんと育てなかったことに起因している。弱いものいじめは「ダメだからダメ」である。この精神を育むには,武士道精神に則った儒教的な家族の絆も復活させないといけない。

なぜ「情緒と形」が大事なのか

美しい情緒や形は,世界に通用する普遍性がある。なぜ,この美しい情緒や形と云うものが大事なのか。その理由は次の通りである。

  1. 普遍的価値
  2. 文化と学問の創造
  3. 国際人を育てる
  4. 人間のスケールを大きくする
  5. 「人間中心主義」を抑制する
  6. 「戦争をなくする手段」になる

国家の品格

戦後の日本は,繁栄の代償に失ったものは余りにも大きかった。「国家の品格」が格段に失墜したからである。日本が国家の品格を取り戻すためにやるべきことは,何か。狭い国土と乏しい資源の国,日本は,初等中等教育が命綱である。国民の高い知的水準が日本の繁栄の原動力であったし,これからもそうである。

一国の将来を予測するときに,「数学や理論物理のレベルが高く,その指標として天才が出ているか」を見ることにしている。天才を生む土壌は三つの条件がある。

  1. 第一条件 : 「美の存在」
  2. 第二条件 : 「跪く心」
  3. 第三条件 : 「精神性を尊ぶ風土」

日本はこの三つの条件を満足している。ヨーロッパ,アジアの国々と比較にならないほど経済大国である日本,何の資源もない島国が,これほど著しい実績を残してきたのは,日本人が持っていた「国柄」がすばらしかったからではないか。

品格ある国家の特徴は次のようなものである。

  1. 独立不羈 :自らの意思に従って行動できる独立国
  2. 高い道徳
  3. 美しい田園
  4. 天才の輩出

大正末期から昭和にかけて駐日フランス大使を務めた詩人ポール・クローデルは「日本人は貧しい。しかし,高貴だ。世界で唯一つ,どうしても生き残ってほしい民族を挙げるとしたら,それは日本人だ」と云っている。日本人一人ひとりが美しい情緒と形を身につけ,品格ある国家を保つことは,日本人として生まれた真の意味であり,人類への責務と思う。この世界を本格的に救えるのは,日本人しか居ないと思う。

祖国とは国語

最近の国家的危機の本質は誤った教育にある。わが国の劣化しきった体質を念頭に,いかに教育を根幹から改善するかである。そのためには,小学校における国語こそが本質中の本質と思える。国家の浮沈は小学校の国語に掛かっている。国語は思考そのものと深く関わっている。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない。母国語の語彙は思考であり,情緒なのである。

読書は教養の土台だが,教養は大局観の土台である。文学,芸術,歴史,思想,科学と云った,実用に役立たぬ教養なくして,健全な大局観を持つことは至難である。祖国とは国語である。と云うのは,国語の中に祖国を祖国たらしめる文化,伝統,情緒などの大部分が包含されているからである。血でも国土でもないとしたら,これ以外に祖国の最終的アイデンティティとなるものがない。

小学校の国語の総時間数が戦前の三分の一ほどである。その原因は,一つは国語を情報伝達の道具としか考えていない人が余りにも多いからである。二つめは,教科の平等である。何が最重要かを考えずに決められている。小学校での教科間の重要度は,一に国語,二に国語,三,四がなくて五に算数である。国語の低下は,知的活動能力の低下,論理的思考力の低下,情緒の低下,祖国愛の低下,を同時に引き起こしている。不況が何十年続こうが国は滅びないが,この四つの低下は確実に国を滅ぼす。国語の力の低下が国を滅ぼすのである。改めて祖国とは国語なのである。

小学校の国語時間数の飛躍的拡大がまずなされなければならない。量的拡大だけでは全く不十分である。質の改善も必要である。「子供を読書に向かわせる」を最大目標にすえた指導法改善が望まれる。国語教育でも,「読む」「書く」「話す」「聞く」は平等ではない。寺子屋には,「読む」と「書く」しかなかったが当然である。本質を見抜いていたと云える。

日本には至宝とも云える文学遺産がある。万葉集,徒然草,方丈記,平家物語,奥の細道から始まって,藤村,朔太郎,犀星,中也に至るまで,文学王国日本は宝物の山である。これだけ豊かなものを小中学校の教科書に導入できない理由は,第一に漢字制限である。第二は,子供に対する阿(おもね)りがある。ゆとり教育の真因でもある。これは日本語の美しい表現やリズム,人々の深い情感,美しい自然への日本人の繊細な感受性,などに触れる機会を子供から奪っている。漢詩も含め,先に挙げたような文学作品群は,文化,伝統の中核であり,祖国そのものなのである。

主な主張を抜粋したが,私なりの感想を述べてみたい。

著者の主張にある程度感銘を受けながら,素直に,日本人としての誇りと自信をもっとしっかり持つべきであると感じた。王監督が率いたワールド・クラシック・ベースボールの際,日本が優勝したときは,日本人がこぞって喜んだ。こうした気持ちは,自然と湧き上がるものである。「愛国心」である。しかし,「愛国心」と云う言葉は,戦争と直結させて,戦後消し去ろうとしてきた。著者の云う「祖国愛」は,どこの国の人も持ってしかるべきものであるのに,「愛国心」と云う言葉がそれまでもなくそうとしているのである。だから,日本に住んでいる人よりも,海外に出た人の方が,日本人としての誇りをもってやっているとも云われる。自然と「祖国愛」(愛国心)が芽生えるのである。我々も,普段の生活から,日本人としての品格を改めて見直さなければいけないように思う。

自分自身の数少ない経験からも,欧米人と接するとき,語学がもっと流暢にできれば,と感じる以上に,日本の文化や伝統をもっとしっかり身につけておくことの方が,相手との会話も弾むことも経験したし,自分で撮った日本の風景写真をあげて,非常に喜ばれたこともあった。また,日本人が政治や経済にどれだけ関心を持っているかといったことも,話題に上ることが多かったように思う。著者が主張する国語をもっと熱心に勉強し,歴史,文学にも興味を持つことが重要なことは身を持って経験したことがある。国語が大の苦手だった学生時代を振り返りながら,改めて感ずるところである。

最近の教育現場を実際どのようになっているか知らない者が言うのは憚れるかもしれないが,学力の低下は新聞紙上でも賑わしているし,我々の時代と違って塾が勉強の場になっている実態もある。実際,自分の子供のことを思い起こしてみると,子供が小中学校時代は,ちょうど高度成長期だったこともあり,仕事に明け暮れして,殆ど子供の勉強に付き合ったことなどなかった。まるきり母親任せであった。当然,みんなが行くからと行って,塾通いもさせていた。「ゆとり教育」で学校の教え方が悪いという前に,父親として教育に熱心でもなかったように思う。そこそこできておれば,それでよいくらいだったように思う。この本を読むと,もっと一緒に,童話に始まり,歴史や文学などを父親として教え,学ばせるべきだったのではないか,と云う気持ちにさせられる。

教育基本法の改正が議論されており,「国を愛する心」では,軍国主義へ進んだ過去があり,与党案が「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」(態度の養成)になるようだが,テレビでも討論されていたが,心を養う教育と,態度を教える教育とは違うように思える。素直に,祖国愛に通じるような「国を愛する心」が教育の基本であってほしい,と願うのは私だけだろうか。多くの日本人がそう感じているのではないだろうか。「ゆとり教育」と云って,時代の先端を行くような幻を追っかけた失敗を二度と繰り返さないためにも,よく考えて欲しいものである。

我々の同窓生の中にも多くの方が教師になっておられる。したがって,前述した著者の主張対して教育現場から見られると,いろいろな反論もあるだろう。しかし,企業人,社会人として昨今の世の中を見ると,この本が示唆するところは大いに考えさせられるものがある。また,団塊の世代として高度成長期を担ってきたものとして,次の世代へ十分伝承できていない自省もある。しかし,未だ遅くはない。本当に日本人として,何を為すべきかじっくり考え,次世代の若者に日本人としての誇りを伝えなければならないのではないか。

もし,興味を持たれ,時間があれば,一度目を通して見られては如何か。

 

参考図書

「国家の品格」 藤原 正彦 著  新潮新書 @714円

「祖国は国語」 藤原 正彦 著  新潮文庫 @540円

 

[2006.04.23 Reported by 「金亀一三会」システム担当  Hitoshi Nishimura