■如是我聞 @ 日夏香林さん (旧3年2組)

 私は、35年間大谷中学校・高等学校(大阪の女学校)の教諭として勤め、社会と宗教(仏教)を担当しておりました。もう退職して4年になります。
 現在浄土真宗本願寺派の寺を持たないフリーの新米僧侶として活動しています。
 私は、浄土真宗本願寺派のお寺に生まれたのですが、若かりし頃、お念仏を称えたら救われるという親鸞さんの教えに納得がいかず、父(住職)の生き方にも反発しました。そのため、大学では真宗学を専攻せず、「人は何のために生きるのか」「生と死について」「いのちとは何か」について考える哲学を学びました。特にニーチェのニヒリズムを研究しました。しかし、哲学では、煩悩の塊である私のこころは救われなかったのです。そして挫折。結局、一番身近にあった親鸞さんの教えに還ることで、自分のこころのすみかを見つけることができました。その親鸞さんの教えのどこに共感できたのか、少しずつ紹介していけたらと思っています。
さて、私は、現在関西僧侶の会「いのちの集い」という会に所属しています。
この会は、関西圏の有志による超宗派の僧侶(約40名)が中心となって、自死をされたご遺族の方の悲しみ、苦しみを聞かせて頂いて、抱え込んでいる様々な想いを安心して語れる場をともに過ごしていただきたいと願い、分かち合い"いのちの集い"を開催しています。2カ月に1回、大阪の本町にある北御堂(津村別院)の一室をお借りして活動しています。
現在、東京、名古屋、神戸、広島、福岡においても「自死に向き合う僧侶の会」があります。年に1回交流会を開き、連携をとって活動しています。
 「自死(自殺)」という亡くなり方をする人が この時代、この日本社会に年間およそ3万人近くもおられます。
人は、差別や貧困、いじめや虐待、孤立や過度の競争、その他さまざまな要因で、「生き方」や「いのちの問題」に行き詰まり、悪化したことが、自死につながったと考えます。 
 授かったいのちを、いのち尽きるまで生き抜くことなく、いのちを絶つことはとても悲しいことです。また大切な人をなくした家族の悲しみ、苦しみは、たとえようがないほど重くて深刻です。
 人は自死(自殺)を、いのちを粗末にしたということで、罪深いこと(悪)ととらえがちです。自死遺族に対して冷たい目で見たりします。そのため、自死遺族は、近所付き合い、友達付き合いができなり、孤立して家に閉じこもる人が多いです。そして自死したことを隠し続けたりもします。また、死の原因を自分の責任ととらえ、幸せになること、笑うことすらも罪と考え、自分を責め続ける人が多いです。人の幸せを呪い、憎んだりする人もおられます。そして涙が枯れるまで泣き続け、精神的に耐えられず、鬱になり、精神を病み、薬に頼らざるを得なくなる人もおられます。
 そうして、藁にもすがる思いで、「いのちの集い」に来られます。初めて自分の思いを聞いてもらえたと、やっと胸のつかえが取れましたと、少しほっこりされて帰って行かれます。また他の自死されたご遺族の方の悲しみ、苦しみを聞いて、苦しいのは私だけではないとわかり、少し楽になって帰って行かれます。
 仏教では生死一如(しょうじいちにょ)といって、“生”と“死”が別々であるとは考えません。「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり。」(清沢満之)です。死を問うことが、生を問うことになります。自死を通して、残された遺族の生き方の問題を問うきっかけとなります。死を通して仏さんの教えに出会うことになります。「自死・自殺」の問題は、私の「生き方」の問題なのです。
 “生死”を問い続ける僧侶として、この事態をどうにかしたいということで、自死(自殺)に向き合う僧侶有志の集まりとなったわけです。
しかし、人の悲しみに寄り添うということは本当に難しいことです。
「いのちの集い」では、共通理解としては、「ただひたすら悲しみ、苦しみを聞かせて頂く」ことをモットーにしています。私たち僧侶は、できるだけ自分の意見や、思いは言わない、押し付けない。ただひたすら聞かせて頂きます。自死遺族の方は、悲しみや、苦しみを、僧侶や他の遺族に話すことで、自ら、悲しみや苦しみを乗り超え、生きる力となっていきます。人生を諦めるのではなく、前向きに生きていく手助けとなることを願いながら、自死遺族と向き合っています。
 ここで「悲しみに寄り添う」ということを、仏教の教えから考えてみたいと思います。
 仏教に<「対治(たいじ)」と「同治(どうじ)」>という教えがあります。
 駒沢勝氏(小児科医師)は、『医と私と親鸞』というエッセイの中で、「同治と対治」という言葉を引用されています。
 これは、たとえば発熱に対して、氷で冷やして熱を下げようとするのが「対治」で、温かく汗を充分にかかせて熱を下げるのが「同治」です。
言ってみれば、「対治」は現状を否定するのに対して、「同治」は現状を肯定するところから出発した考え方です。
 また、悲しんでいる人に、「悲しんでも仕方がない。元気を出せ」と悲しみから立ち直らせようとするのが「対治」で、一緒に涙を流すことで、寄り添うことで、何となく心の重荷を軽くするのを「同治」というのです、と駒沢氏は説明されます。
 さらに駒沢氏は、事例をあげながら、ある神経性食欲不振症の子どもの治療においての場合です。主治医も周囲の人々すべてが患者のことを思い、その相手のことを自分のことのように本当に親身になって寄り添いました。そして、その子どもが食べるようになるための努力を惜しみませんでした。
 しかし、それは同治ではありません。というのも、これら周囲の人たちの努力は、結局、「食べないことは許さない」という一点において、この子と対立していたのです。つまり、対治だったのです、と。
 対治は、すべてを否定することから始めます。人は、老い、病気、死を否定します。不自由であることも悪と考えます。
 すべてを受け入れ、肯定する考えはなかなかできるものではありません。同治は、煩悩具足の私たちには、なかなかできそうにありません。一緒に涙を流すことはできても、悲しいかな、ありのままを受け入れたり、寄り添うことはなかなか難しいことです。
 同治とは、阿弥陀さまのお慈悲のことで阿弥陀さんのはたらきのことなんでしょう。だから阿弥陀さんは、私たちに聞治という治療法を与えて下さったのです。
 『涅槃経』の中に「聞治」という教えがあります。「治」は治療という意味です。
聞治は、仏法を聴いて治す方法です。ひたすら仏法を聞かせて頂いて、聞こえてくるものに耳を傾けていく。これが聞治なんです。仏さんの方から絶えず語り掛けてくださっている真実を、聞かせていただく。つまり、いかに無明(むみょう)・煩悩の私であったかを気づかせて頂く。「いずれの行も及び難き身」、「さるべき業縁の催せば、いかなる振る舞いもすべし」『歎異抄』の私だからです。仏法を聴かせて頂いて、本当の自分に目覚めさせて頂くことで、阿弥陀さんが治してくださるのです。無明・煩悩のままで、そのまんまで救い取ってくださるのです。
 私が「聞く」のではなく、阿弥陀さんが聞かせてくださる。「聞いてあげた」「良いことをした」と思うのは、私の勝手な耳で聞いたことになります。ではなく「阿弥陀さんの呼びかけを聞かせて頂いた」という聞き方をしたとき、私の気づき、頷きが生じるのだと思います。阿弥陀さんの慈悲は、「頑張れ」という励ましではなく、どこまでもありのままの私を、そのまんま引き受けて下さるはたらきといえましょう。仏教は智慧の教えです。智慧とは、目覚めです。仏教の法に目覚める(煩悩の塊りである私に目覚める)ことで、生かされていることを喜べるのです。
 死という悲しみを聞かせて頂くことで、仏法に目覚めさていただくご縁を大切に、ご遺族の方たちと向き合っていきたいと思っています。

 まとまりのない話でしたが、ここまで読んでいただいて有難うございました。
 また、参加させてください。

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