2007年5月9日(水)9時30分 新世界へ の回答
西村 仁司 (旧3年7組)
hnishimu@kcat.zaq.ne.jp
沢田さんから便りを頂きました。
定年後の生活を着々と進められている山村さんの別荘を写真付でメールされてきました。真に羨ましい限りです。山村さんに限らず,他の方もそれぞれ計画を実行されているのではないでしょうか。
掲示板に写真を添付との依頼でしたが,何分今の私の技術では難しく(掲示板の新しいメッセージのみ,CGIと言って,私が編集するのでなく,登録しているサーバー側で自動作成する仕組みになっていますので),掲示板そのものには添付できませんでしたので,「私の近況報告」のコーナーに送られてきた写真を添付してありますので,そちらをご覧ください。
山村さんのように,皆さんの定年後のご活躍ぶりも拝見したいと存じますので,写真だけでも,文章を添えていただいても結構ですので,メールなり,手紙なり,送付する方法も何でも結構ですので,事務局までお寄せください。
ご紹介しながら,我々の輪がこれからもどんどん広がって行くことを期待しております。
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2007年5月6日(日)13時15分 新世界へ
沢田 健二 (旧3年4組)
kenji@kyo10.com
長かったGWと称する休日も今日でやっと終わりつつある中、会員各位にあらされては、充分お寛ぎ頂けましたか?昨年から今年にかけて社会の実戦から離れられた方々には、ご苦労様でした!と心から労いの言葉を送りたいと思います。しかしながら気持ちの上ではまだまだ若い我々です、最近の私の知り得る友の中には今までの経験を生かしたり、あるいは全く違ったジャンルに挑戦し新たにこれからの人生を培って行こうと努力なさってる方々が随分といらっしゃいます。金亀一三会HPの掲示板が楽しみや励ましの場となればと願うばかりです。西川健二君お便り拝見しました。初めての世界へ身を投じ、よくぞご健闘なさいましたね。めげずにこれからの益々のご活躍を祈念致しております!ところで昨日、山村和夫君が驚く無かれ、4年前より彼自身が構想練り設計から施工までを殆ど一人(勿論奥さんの手伝いは大であるが・・・)で手掛けている別荘(別宅?)を訪問して参りました。出来上がり状況は80%?位なのでしょうか、ともかく持前のアイデアや技術を駆使して建設をしているところがとてもユニークです。
本人の許可を得て写真取材してきました。掲示板に添付されればと
IT局長さんへデータを送らせてもらいました。
こんな具合に彼も頑張ってましたよ〜 |
2007年4月29日(日)11時37分 桜井市議選挑戦結果について
西川健二 (旧3年1組) nishikawa560@yahoo.co.jp
19名中17位(定数16)(893票、得票率2.9%)残念ながら次点でした。但し、もし3ヶ月以内に欠員出来れば繰り上げあり。
いろいろはじめての経験ばかりでしたが、街頭演説でも自分のマニフェストを言うことが出来、結構たのしかったです。
朝日新聞記者の密着取材を告示当日(朝6時45分より午後3時まで)受け、自宅での朝ごはんの様子から写真を撮られ、又、カメラマンを引き連れ選管へ届出をしました。新聞記事は4/22朝日朝刊(全国版)第2面に掲載されましたので、見てやってください。
資金的に余裕もなかったので、ウグイス嬢の変わりにエンドレステ−プ6本を用意し対応し、看板も手作りでした。
さらにネットワ−クを広げ頑張りたいと思っております。西川健二
大和王権誕生の地、桜井市より 2007 04 29 |
2007年4月18日(水)22時39分 東高音頭について
木隆雄 (旧3年1組) taka-taka@agate.plala.or.jp
仕事は暇やけど、いろんな地域の役で毎日目を回しています。掲示板に、東高音頭の話でいろいろ出ていますので、東北旅行へ行った当事者としては、一言ぐらいは言わなければならないと思い、ちょっと書いてみようと思います。引率の先生は、梅原先生、椙本先生、渡辺先生でした。会津若松で汽車を降り。当時の二年一組は渡辺先生に引率され「十和田観光」の観光バスの一号車に乗りました。一号車のバスガイドさんはわれわれ高校生にとっては大変チャーミングで明るくみんなの憧れでした。ガイドさんの歌う「斉太郎節」は今でも耳の奥に残っているほどすばらしいものでした。私たち男子学生は調子に乗り、何度もガイドさんにリクエストをし、悪乗りした最後には「斉太郎節」を「さんま節」と言い始めました。初めは何も知らないガイドさんでしたが、先生のあだ名であることが判ると、「こんな学生だとは思わなかった。もうガイドはしない」と烈火のごとく怒り出しわれわれは意気消沈してしまいました。その時、渡辺先生が「東高音頭」を披露され、作詞は「渡辺三昧子」であり、それは私のペンネームですと助け舟を出していただき、われわれ憧れのガイドさんに嫌われずに済むと、ほっと胸をなでおろしたものでした。最後の宿泊先の酢ヶ湯温泉では、おみやげ物を買いに外へ出て行くところがないので、旅館でクラス対抗のかくし芸大会をやろうということになり、やんちゃの揃っていた二年一組は、振り付け、大前君、歌「ひょろひょろロンガース」(奥野君、堀部君ともうひとり)、衣装どてら(踊り手、谷君、森本君、大前君、安居君、尾賀君・・・・)で「東高音頭」を初公演したわけです。見事賞品のこけしを獲得し、旅行から帰って、担任の藤沢先生に得意満面プレゼントをしました。ざっとこのようないきさつもあったのです。ここに出てくる個人名は、間違いはないと思うのですが、間違っていれば後日よりお詫びいたします。そのため、あまり掲示板に投稿のない方に限定をいたしました。
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2007年4月18日(水)19時16分 セピア色の思い出
坪田保雄 (旧3年4組) ytsubota@dance.ocn.ne.jp
ジャンジャラスッポンポンに関して歌劇団結成という至って前向きな構想が生まれつつある同じ桜の花の下、東北旅行・酸が湯というキーワードに触発され過去に向かって退行的に記憶の糸を辿っていると、海馬の奥に沈みこんだと思われた事柄が突然目の前に現れた。
それは完全水洗式トイレ、足元を轟々と大量の水が流れて行くではないか。厠の語源は川屋であるということを如実に実証していた。水に流すという極めて日本的な解決策をそのまま実行していたのには本当に驚かされた。
しかし、環境保護に関する規制が厳しくなった今、あのおおらかなシステムが現存しているとはとても思えない。
今になって思えば、大雨で川が増水したら自らが流れる危険と隣り合わせの決死の覚悟を要求するシステムであったのであろうか。
澱みに浮かぶ泡沫の、かつ結び、かつ消えのごとく、いくつになっても疑問の種は尽きることなし。
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2007年4月16日(月)6時14分 野田 暁春先生
松宮 剛 (旧3年5組) matsumiya419127@jcom.home.ne.jp
次第に話が膨らんできているようですね。金色の校章に飾られた黒のファイルを此処何日か探しているのですが見つかりません。昨日愛知中学校同窓で、東高校では一年後輩かつ音楽部も同じ「豊満 寛」君に電話したのです。「野田曉春」氏は、彼の叔父に当たるのです。80歳の今もお元気で、作曲もされているとのこと。連絡してもらった後、直接電話でお話しました。明確な記憶は無いご様子でした。「少し時間をください」とのことでしたが、どうでしょうか?「渡邊守順」先生はご健在ですか?ご存知の方からお尋ねになってはいかがですか?私一人が歌詞付のスコアを持って居たわけではない筈です。私も作曲していただいた後それがどのような経緯で広まって行ったかについての記憶がないのです。(申し訳ないことだと思います)卒業アルバムにある踊りの場面の写真は間違いなく「東高音頭」のパフォーマンスです。
ところでその「野田先生」は、山田和子さんや梅原綾子さんのピアノの先生でも在ったと記憶しています。昭和30年頃大津で活動していたオーケストラに、ヴァイオリンを習い初めて2,3年の私を参加させてくださったことも遠く懐かしい記憶です。
昭和38年当時のことですから、謄写版で刷ったものを多くの方がお持ちだったろうと思うのですが。何かこうした展開に「わくわく」している自分に気がつきます。
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2007年4月15日(日)23時28分 ちょっと!ちょっと!ちょっと!!!
辻 康子 (旧3年10組)
yasu1821@mx.biwa.ne.jp
掲示板を見てビックリ!!
何ッッ???ジャンジャラ歌劇団?団長??
きれいな桜の下でいい調子で美味しいお花見弁当を食べてご機嫌で楽しんでいたら、どこかの隅っこでそんな企みがなされていたとはーーー、
知らなかった−−−ぁ!!
でも、何で私、その歌を知ってたんでしょう?
松宮さんとは2年のとき同じクラスだったのですが、それでひょっとして旅行のときの話やなんかと一緒に聞いたのかもしれませんがーーー?
私は北九州へ行ったので、覚えていたと言っても実際にみんなと歌ったという記憶はないので、お花見で歌ったのが正しいかどうかは全く自信がありません。
どなたか正調、東高音頭をご存知の方!名乗り出てくださーーい!!!
間違った東高音頭が伝わって行ったら、渡辺先生や作曲してくださった先生に大変失礼なことになりますのでどうかよろしくおねがしします。
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2007年4月14日(土)22時47分 彦根東高音頭(通称 ジャンジャラスッポンポン)の今後
宇野 蓉子 (旧3年4組)
yohko813@yahoo.co.jp
先日来 掲示板にて情報交換がなされていました彦根東高音頭を画面でお読みになった皆様は一口では言い表せない、様々な思いにしばし浸られたのではないでしょうか。
当然 このことは去る4月8日のお花見親睦会の席で最大級の話題にのぼり、大いに盛り上がりました。 でも参加者21人のうちほとんどはこの音頭の存在すら知らなかったと言います。松宮さんのおっしゃるように東北旅行で歌ったり踊ったりしたなあとおぼろげながら記憶にある人はほんの2、3人でした。もはやしっかり歌える人はいないのではないのか・・・と思いきや おられました! 歌詞を掲示板に載せて下さった 辻 康子 さんです。 でもでも 辻さんは東北には行っておられません。南九州(北かな?)でした。では一体どこで覚えたの? 辻さん。
そしてこれも当然のことながら 桜の花の下で披露して頂きました。 う〜ん 歌はお上手なんですがすぐには覚えられない節回しでしたのでいずれ辻さんに密着して記譜してみたいと思います。
さて、ここからが私 一三会の書記としてお伝えしなければならないことなのです。
このような盛り上がりの中 宴の席のすみっこで、あるひとつのアイデアが生まれておりました。それはこの音頭のこれからの行方を示す重要なものであると思われます。首謀者(?)は加藤(宮川)吉治郎さんです。議事録に載せてもいいほどのことなのですが すでに委員会は終わっており、宴の席であるということも考慮して 今回は掲示板に載せて留置き、いずれ正式に委員会に提案して頂きたいと思います。
提案者 : 加藤(宮川)吉治郎
提案 : ジャンジャラスッポンポン歌劇団”結成
内容 : 2010年の金亀一三会総会でデビュー
団長 辻 康子
コーデイネイター 加藤吉治郎
衣裳 棚橋 良雄
これからの活動についてはコーデイネーターまかせ。
以上
ついでながら アドレスを変更しましたのでよろしく。
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2007年4月6日(金)8時54分 追記
丸井 壽子 (旧3年3組)
daish0591@juno.ocn.ne.jp
「東京・生と死を考える会」
場所 〒160-0003 東京都新宿区本塩町12-4
ピークセブン1F 103号室
目的 アルフォンス・デーケン(上智大学名誉教授)の提唱する
@「死への準備教育」の普及促進
A終末期医療の改善と充実。およびホスピス運動の発展に
尽くすこと
B死別体験者の分かち合いの場をつくり、その立ち直りを
援助すること
TEL.03-3357-5780
FAX.03-3357-5793
月、火、木曜日 10:00〜16:00
ホームページ
http://homepage2.nifty.com/tokyo_seitosi/
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2007年4月2日(月)11時13分 丸井壽子さんへのお礼
北村 豊 (旧3年1組) yutaka.kitamura@fudotetra.co.jp
自宅に「本」を送って頂きましたが、御名前に見覚えもなく戸惑い、お電話をお掛けしました。丸井さんから、旧知の同級生と結婚されていたとお聞きし、ありがたく頂きました。読書後、その本の参考文献から「ガン」関連の、最新の苦痛の少ない治療技術を知ることが出来、その後、肺ガンのヘリカルCTにより、影が発見されたときもあまり動じることがありませんでした。(幸い自分で気付かない過去の肺炎の跡らしく、1年後の再検査で済みました。)高校時代、皆様に御迷惑を掛けた私にまで、「本」を下さったお陰と大変感謝しております。
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2007年3月31日(土)23時2分 明日(4月1日)還暦誕生日
丸井 壽子 (旧3年3組)
daish0591@juno.ocn.ne.jp
明日4月1日還暦を迎えます。
夕方ある同級生から
お誕生日 おめでとう
還暦を むかえる日
おめでとう
60才まで
すごしてこられ、この日が
むかえることができて
ほんとうに おめでとう
新しい一歩
体にきをつけて
生きていこうね
こんなのを もらいました。
わたくしが最後の還暦誕生日でしょう
同級生の皆さん
新しい一歩
体に気をつけて
生きていこうね。
「日本のがん医療を問う」NHK科学文化部著 新潮社出版を贈呈さ
せていただくことは、私の私への還暦祝いでした。多くの方々から
沢山のお便りやお電話等をいただきました。また、おしかりも頂戴
しました。ほとんどの方は困惑されたのではないかと思います。御
礼とお詫びの両方を申し上げます。
発送の際同封しました書面では書ききれなかったことを書かせて
いただきます。
私は彦根東校の同級生と結婚していました。彼は昭和62年6月21
日41才と3日で亡くなりました。
彼の死後、私を襲うもろもろの感情の中で、最後まで残ったの
は、知識不足による見逃しへの無念の思いです。(癌ではなかった
のですが急死でした)
その頃、アルフォンス デーケン氏と曽野綾子さんによる往復書
簡「旅立ちの朝に」を読んでいましたら、あとがきに、当時名「生
と死を考える会」の一つのグループに「死別体験者の分かち合いの
会」の紹介がありました。
上智大学の旧図書館でおこなわれていました。私たちは、結婚
後、3年半を埼玉県草加市の社宅で暮らし、その後横浜市の緑区に
住んでおりました。
「死別体験者の分かち合いの会」 そこには、子供を亡くされた
方、自殺、テレビで放映されたような大事故、癌・・・ それは
様々な方達がおられました。それまでの価値観は殺りくされ、虚の
中をさ迷い、そこからまたひとつずつ新しい価値観を積もりあげて
いく作業場でした。
昨年の春の定例会に講演してくださったのが、NHK癌特別取材班
の岩本裕記者(33才)でした。「癌対策基本法」が国会を通った6
月22日寸前の定例会でした。
講演後の懇親会で「こういう本て・・・売れないんです」とつぶ
やかれました。生と死を考える会 現・「東京生と死を考える会」
の合言葉は「言ったらやらねば」です。
そこで自分に何ができるかを考えました。そしてこの本を1000冊
小・中・高の同級生に贈呈することに考えがいたりました。60才ま
で残れた命、三人に一人は癌で死ぬ時代、知識不足によるもったい
ない命の消え方は、私にも、誰ににもいやだったのです。
私の40代、50代は、良いも悪いも激しい季節でした。私事ばかり
で恐縮ですが、「生と死を考える会」の事務局の理事をボランテイ
アでやっていました男性と平成6年再婚しました。音楽史の教師で
した。が、私学の学長争いに巻き込まれていたらしく、争いの少し
でも少ない社会へと、仏教を学び始め僧侶になりました。実は私の
実父は浄土宗の寺院の住職でした。それで私の実父と師弟関係が結
ばれました。前住職(実父)の死亡後、住職をやっております。も
って私は住職の妻ということになりました。
同級生はよいものです。日野からは遠いので東高選択の際、迷い
がありましたが、東高を選んで本当に良かったと思っています。私
の宝だと思っています。私に、運命として運ばれてくるもの、それ
にむかわざるを得なかった時、その全ての、どの角にも東高の同級
生が立っていてくれました。まさにすべての場所場所に立っていて
くれ、救ってくれ、手を貸してくれ、ここまで導いてくれました。
20年前には考えもできなかった穏やかな境涯で、明日4月1日私は
誕生日を迎えることができます。
「私は、桜の季節、昭和22年4月1日、父を父とし、母を母とし、
この世に出てきたんだ」そういう思いで迎えられる私は本当に、心
からしあわせだったと思えます。
そして、これから、一番、この世の大切で難しい、おのれの死へ
の準備季節に入ります。
新しい 一歩
体に気をつけて
生きていこうね。
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2007年3月26日(月)19時51分 ジャンジャラスッポンポン
松宮 剛 (旧3年5組)
matsumiya419127@jcom.home.ne.jp
話題の歌に関して私の知るところによりますと、それは、我々が高校2年の夏早い頃であったと思います。渡辺守順先生が、作詩をしたから(と言うよりも何となく詩が出来たので、)誰かに曲をつけてもらえないかな、と持ちかけられました。持ちかけられた私には、作曲を依頼出来る人は唯一人、私のヴァイオリンの先生以外にありませんでしたから、実に簡単なことでした。「野田暁春」と言う、愛知川町沓掛のお寺の嫡男であるその方に、ためらうことなく依頼いたしました。多分私の合唱部のファイルの中にそのオリジナル楽譜も存在しているだろう、とは思うのですが、そうしたものを此処二十年来見てもおりませんので、極めて心もとない限りです。ただ、東北旅行で(多分酸ケ湯)私と一緒に出し物をやった人達にとっては、本邦初演のお披露目をしたご記憶がおありだろうと思います。例えば大前君、は同じ仲間であったと記憶しています。当時は、あまり良い曲にはどうしても思えなくて、半分恥ずかしいような気持ちで振り付けし、歌った記憶があります。そうした事どもを残念にも懐かしく思い出します。4月8日ご出席の方、辻さんのご記憶の通りの歌詞で存分にお歌いください。思い出せば渡辺先生の依頼でたくさん写真を撮ったことや、太宰が食したと思しき名物を良く買ってはお渡したことを記憶しております。あいにく私は当時(だんごなど)あまり好きではありませんでしたので、先生と共に食す、事はまずありませんでした。今にして思えばいささか残念なことではあります。
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2007年3月25日(日)22時27分 ♪東高音頭
辻 康子 (旧3年10組)
yasu1821@mx.biwa.ne.jp
♪ 春は桜が校舎を染めて−−−ェ
ああ、それ彦根東よいやさのさ
東高校よいやさのさ
それ、ジャンジャラスッポンポン
ジャンジャラスッポンポン!
だったと思うのですがーー???間違ってたらごめんなさい!
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2007年3月25日(日)19時34分 謎の名曲
加藤(宮川)吉治郎 (旧3年1組)
kkichijiro2003@ybb.ne.jp
じゃんじゃらすっぽんぽん
♪春は 桜が 校舎を染めて
なんたら かんたら
なんちゃら かんちゃら
じゃんじゃら すっぽんぽ〜ん
じゃんじゃら すっぽんぽ〜ん
この歌をご記憶の方はいらっしゃいませんか。
国語(?)の渡辺守順先生が作詞作曲された校歌にも匹敵する名曲でした。
毎年この季節になると、校長の入学式の定番式辞「桜の花もちらほらと」とともに懐かしく思い出されます。
4月8日の花見の席でどなたか、歌って見せていただけませんか。
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2007年3月22日(木)9時52分 毎日が日曜日,でも・・
西村 仁司 (旧3年7組)
hnishimu@kcat.zaq.ne.jp
1月末で約38年間勤めたサラリーマンを定年退職。毎日が日曜日をしみじみと味わっています。と言えば,晴耕雨読ののんびりした状況を浮かべる方が多いかもしれませんが,そうでもありません。
退職後のまず第一の仕事が,お袋の介護です。田舎で独り暮らしをさせていたのですが,1月初めに救急車で病院に運ばれました。元気なうちは地元が良いと頑固なお袋でしたが,どうすることもできなくなり,以来大阪へ連れて来ました。ちょうど,退職2日後に,入院することになり,完全看護ですが,入院先が近くでもあり,散歩がてらに病院通いをしています。順調に回復しておりますが,退院後の独り暮らしはとても無理で,気だけはしっかりしており,田舎の方が良いと言いますので,地元の介護老人ホームを探している今日この頃です。滋賀を離れた方で,同じような思いをされておられる同輩もおられるのではないでしょうか。
そんな毎日ですが,定年後の仕事はなく,初めてハローワークへ行き,失業の手続き,認定を受けたり,年金の申し込みに行ったりと,ようやく定年直後の仕事が一段落しました。
仕事をしたい思いは強く,これまでのスキルを使って次世代の人に何か伝承したいと,退職した翌日から
「技術経営の交差点」〜団塊の世代からのメッセージ〜
と題した,次世代の若者に語りかけるホームページを立ち上げました。(リンク集にて紹介)これは,仕事の,しかも技術系の話で一般受けはしませんが,その中の一コーナーに毎週エッセイだけは書き続けようと決めました。これも会社生活の最後の5年間毎週続けた実績がありますので,頭を使う訓練として何とかなるだろうと前向きに考えています。もし,興味を持たれた方がいらっしゃいましたら,息子さんなど次世代の方に紹介していただければと思っています。と云うわけで,退職後は仕事場が自宅のパソコンに代わっただけです。トーマス・フリードマンが書いた「フラット化する世界」そのものを実感しています。
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2007年2月1日(木)21時14分 旧3年1組の和子さんへ
西川健二 (旧3年1組) nishikawa560@yahoo.co.jp
正月早々奈良に来られた由、拝見いたしました。つきましては貴女にメ−ルしたいのですが、送信できません。よって、小生宛に下記までメ−ル下さい。大和王権誕生の地、桜井に在住しております。約38年間古代遺跡を探索しましたよ。 奈良県桜井市朝倉台東1丁目560-25 西川健二
nishikawa560@yahoo.co.jp
追伸 小生、団塊ネット(団塊世代を地方議会に送る全国ネットワ−ク)の推薦で統一地方選に挑戦する予定です。
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2007年1月14日(日)16時52分 奈良を歩いて来ました。今年もよろしくお願いします。
椙本 和子 (旧3年1組) kazukosugimoto
1月7、8日 若草山の山焼きを目当てに宿をとって奈良に行き
ました。7日当日朝の雪と強風のため残念ながら山焼きは中止。
でも冬の大和路を久しぶりにしっかりと歩いて来ました。
まず猿沢の池から興福寺へ行き阿修羅像に会い、春日大社の
本殿まで歩き初もうで。(ちなみに近鉄奈良駅から春日大社ま
で1.4km)その後東大寺の三月堂(法華堂)の仏像達をじっくり
と拝観し二月堂へ移り舞台からの絶景を堪能し、瓦を混ぜ込んだ
土塀の道を下って正倉院から大仏殿へ。鹿がいっぱいいました。
翌日は斑鳩の法隆寺まで足を伸ばし、金堂 五重塔 夢殿を
拝観し、百済観音に出会い、となりの中宮寺で弥勒菩薩に再会し、
西ノ京の薬師寺 唐招提寺と巡りました。
数十年ぶりにみた仏像やお堂は若い頃とはまた受け取り方も感慨
も変わり、圧倒され感動しました。
冬の日差しの中の大和路歩きは とても清々しくて、また今年も
頑張ろうという気になりました。
今年もよろしくお願いします。
椙本 和子 |
2007年1月2日(火)10時53分 還暦を迎えて
西村 仁司 (旧3年7組)
hnishimu@kcat.zaq.ne.jp
今日が誕生日,60歳,還暦です。団塊の世代といわれる2007年の先頭を走っています。会社生活も今月で終わり,ラストスパートの直線に入った段階です。いろいろやり残したことはありますが,丁度区切りとして,新たな人生のスタート台に立った心境です。第二の人生として,あれもやりたい,これもやりたいと思いだけが先行しています。初心忘れるべからず,と云われる様に,これからしようと思っていることを,まずまとめ,目標を決め,更にはマイルストーンを設定しておこうと決心しています。
その一端を述べるなら,これまで会社生活を通じて学んだことを,これからはもっと世界を広げ,特に日本の将来を担う若者に少しでも貢献できることができないかと夢だけは大きく持っています。折にふれ,その内容をこの掲示板でも紹介していくことにします。
60歳と云ってもまだまだ元気です。若い人には負けないエネルギッシュなものも衰えてはいないつもりで,インターネットなどを大いに活用して,団塊の世代から世の中へどしどし発信していく計画です。
また,このホームページの充実も,時間的余裕はできると思いますので,皆様のご協力の下で進めたいと思っています。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。 |
2006年12月31日(日)21時16分 新しい年のはじめに:
松宮 剛 (旧3年5組) matsumiya419127@jcom.home.ne.jp
二月に満60歳を迎えることになりました。嗚呼、なんと容赦の無い仕打ちであることでしょう!
時の経過が冷徹にも身体に刻み込まれてゆきますが、一方では旧態依然とした私自身が、何の進歩も無く、時に取り残された私自身が此処に居ます。恥ずかしげも無しに。
哀しみも悦びも身体の現実に追いつくことができません。
ひたすら疾走する「時」に。
あるいは、この落差こそが「老化」なのでしょうか?この落差を埋めることができるなら、「青春」が甦るのでしょうか?
慨嘆している訳では在りません。むしろ素直に驚いているのです。
この落差、この目の当たりの現実に・・・。
あらゆる事態に怯まず、たじろがず、堂々と対処できる私が居なければならなったのです。 何しろ60年もの歳月を重ねたのですから。 それがこの体たらくとは!
驚いている暇(いとま)はありません。 日々、刻々起きる新たな事態に臆することなくぶつかってゆくためにも、受け容れる勇気とささやかな気概をもって・・・。
そして、他人事(ひとごと)を他人事と思わないやさしさが芽生えたなら、そう、
そのとき、この落差を「寿ぐ」こととしましょう。
2007年1月
※ 本当は0時過ぎに送信したかったのですが、すでに私の就寝時刻を過ぎていますので。 新しい年が、どうか穏やかで、こころ暖かな日々に恵まれますように。
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2006年12月17日(日)13時10分 近江八幡出身東京在住者忘年会
坪田保雄 (旧3年4組) y.tsubota@w5.dion.ne.jp
恒例近江八幡出身東京在住者忘年会、専属瓦版記者報告
時は平成18年「時は晦日月14日酉の刻八重洲中央口、八幡義士御一同遅れは取るまじ」との村田内蔵助の回状受け、得たりや応ときりりと襷掛け、袴の股立ちとり伝来の銘刀腰に勇み出立す。
約束の刻限、一騎当千のつわもの続々八重洲に現る、その名も天下に名高き尾賀健一、福永富夫、村田収、川口賢治の八幡義士一同なり。されど中村文雄義士の姿を見ずは「さては臆したか」の声に内蔵助少しも慌てず携帯なる利器にて繋ぎを取る。中村義士逸りて単騎抜け駆けにて既に打ち入れりの報に、我らも遅れは取るまじと急ぎ向かう。
目指すは「チャンコちゃんちゃんこ」なる「お主ふざけておるのか」と聞きたくもなる親父ギャグ風駄洒落的屋号にて、当夜「ちゃんちゃんこ」に討ち入るは我らが歳に鑑みての内蔵助の深謀遠慮かと納得。かの店大手門に至りてちゃんちゃんこが赤字であるを見て本日の御敵まさに間違い無きを確信す。
内蔵助打ち鳴らす山鹿流陣太鼓一打ち二打ち三流れ掛かれの声聞くや否や先鋒の中村義士の手引きにて首尾よく義士一同討ち入りたるが、山と川との合言葉掛ける間もなく仁義無き舌戦、乱戦、同士討ちに突入す。おじさん義士も多数ともなればその姦しさおばさん族にも引けは取らじ。
先陣を切りしは川口義士、やおら懐より古びたガラスの小瓶2個と小さな石製の男性頭部の彫像取り出し「汝らかくのごとき紀元前とも思わるる骨董に興味ありや」と問う。然るに文化に興味を示さぬばかりか会社では既に己が骨董扱いの輩ども「BCとどこに書いてるねん。」、「どこで掘ってきたん。」などとの愚問を呈し川口義士唖然、憮然なり。聞けば、翌日の平和島での大骨董市にて掘り出し物を得んと軽井沢より出でしところを村田内蔵助に声を掛けられ本日の義挙に参加せしとのこと。まことに神の思し召しとも思わるる偶然にて、久々の出会いに一同感激。全員翌日の骨董市への同行を誘われしが、猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏の輩には説得むなしく川口義士は平和島へ単騎討ち入りとなる。首尾よく本懐を遂げらんことを祈る。
原田浩二義士より繋ぎが入り、所用にて討ち入りに参加できず残念とのこと、義士一同携帯を廻し次回の義挙への是非の与力を願う。
最後の義士、井上斎義士未だ参陣に至らぬ間何故彼が近江兄弟社学園なるセレブな学校に在籍せしかが話題となり、お坊ちゃん度であればこれら義士内にては尾賀義士以外有資格者は見当たらぬとの意見多し。遅参せし井上義士より説明はあるも、残念ながら筆者の記憶はアルコールにて溶解、ここに記すを得ず。
尾賀義士のお坊ちゃん度につき検証進む。証言「小学生の頃尾賀家に遊びに行って出されたアイスクリームに大感激」、「立派な家なので入るまでに玄関で緊張で体が強張った。」これは八幡におけるオールウェーズ三丁目の夕日、尾賀義士はお坊ちゃんでありしと義士一同異議なく結論。
永原町は尾賀義士の生家同様懐かしき佇まいを残す屋敷立ち並ぶ町並みなれど非居住の屋敷もあり維持が大変なり。されど永原町は新町に勝るとも劣らぬ伝統的な町屋が軒を並べた町内にてその保存は近江八幡市の有形文化財を後世に残す意味にて重要なり。町並み保存は伝統文化の維持、観光資源の確保からも重要なりが義士有識者会議の結論にて早速新市長の冨士谷君の課題としてお願いせん。近江八幡は他所にはなき優れもの多く保有せしが通過型の観光に留まるのでは勿体無し、新町、西川邸、八幡掘、比牟礼八幡宮散策後たねやにての買い物のみのパターンではではいかにも残念。長浜の黒壁のごとき手本もあれど、あれは第3セクターで成功した唯一の事例と福永義士の指摘。第3セクターは官庁と民間両者の悪いところのみ併せ持つが宿命と、都庁に長年在籍せしばりばりの元公務員福永義士が断言。冨士谷市長心されたし。
話題は飛びスポーツへ。まずは野球部が3年連続一回戦で敗退せしは既に昨年真相が明かされた故をもって前菜程度の扱い。
中村義士が耐寒マラソンについて発言。「坪田義士も結構早かったね。」とのまずはお褒めの言葉。引き続き「坪田義士のゼーゼーハーハーを聞きながら競り合ったが最後にこれをかわして上位でゴールインした。」と結局中村義士、坪田義士に優りしことの強調なり。間合いを計りて石を打ち詰めを間違えぬ話の組み立て、伊達に人生修行はせぬことの証なり。
村田義士更に時代を遡りし記憶を紡ぐ。八幡小学校にてプール竣工の6年生の頃。夏休みが終わりし初秋水泳訓練の成果を測る記録会。記録は距離のみの測定にてその夏平泳ぎを覚えし坪田義士体力の限りひたすら泳ぎ続けやめられない止まらない状況に陥る。時間にして2時間近くか体力の限界に達しプールより上がりしとき記録は1,100mに達せしがそのとき級友は誰一人としてプール内にはなきは勿論プールサイドに残りたるものも殆どなし。秋口の低き水温に体温を奪われ唇はチアノーゼのごとく紫色、親友を案じ最後まで残りたる友に自転車で送られ布団に入りやっと人心地を取り戻せし。思えばこれが最初の我がエポックメーキングなりしか。
健康問題。福永義士は大学の頃幼少より抱えし心臓の問題を手術で解決し以来三十数年無病にて息災とのこと慶賀の至り。井上義士は大腸ポリープ退治のいささか尾篭なる武勇伝。中村義士の朝は顔に小便が当たらぬよう未だ苦労するは真偽定かならず。尾賀義士は小さな脳血栓を早期発見にて大事には至らず。坪田義士は単身赴任故の孤独死の恐怖を訴う。
井上義士の秘話。幼少のみぎり近江兄弟社に縁深く日本を代表するチェンバロの名手小林道夫氏より声楽を極めぬかとのお声掛り。日本経済に貢献すべく実学の道に進みし後もただその言葉を支えに日夜カラオケの道に邁進せしと。幸か不幸か我未だその実力をしらず誰にその言の真実を問わんや。
時の移るを忘れ口角泡を飛ばせしも鍋の中もあらかた討ち取り焼酎瓶も蹴倒して我らが勝ち鬨の時も迫れり。一同次の討ち入りを約せしが坪田義士来年には主家より永の暇を出され江戸屋敷を離れ上方に戻る故をもって義挙への参加を得ずは残念至極。されど忠義の心やみがたく浪人の身なれど出府の折あらば討ち入りに加担すべく血判にて約せり。
かくして本懐を遂げし八幡義士一同隊伍を整え何処かへ消えにしとかや。
これにて全編読みきりにて候
この記事は事実に基づいていますが、編集、脚色、尾鰭、背鰭、胸鰭の責任はすべて記者にあります。
尚、報道写真は余りの乱戦に記者が報道の使命を忘れてしまいました。お許しください。懲戒免職に致します。
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